2012年12月21日金曜日

マスターライダース忘年会(その1)

12月16日にマスターライダース忘年会が開かれるとのことで、開催のお手伝いをしている先輩にお願いして混ぜていただくことに。

元ヤマハワークス本橋明泰さんをはじめ、レジェンドの方々が集まりました!


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会場は川口オート正門前の「Cross-Road 39」。スズキ・ホンダで活躍された荘利光さんのお店(ミュージックバー)です。店内には荘さんの現役時代の写真も。


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レジェンドの方々も楽しみにしていたご様子。「30年ぶりか?」「40年ぶりだな!」なんて会話も聞こえてきます。再会を喜ぶ姿は微笑ましかったりもしますね。昔話に花が咲きます。
糟野雅治さんは遠路京都からのご参加!。


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トーハツ、カワサキ、スズキでワークスライダーとして活躍された安良岡健さん。マカオではカジノの帝王?
今でもマスターライダーのみなさんの親分的存在です。



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元ヤマハワークス浅見貞男さん。現在もサスペンションチューニングショップ浅見レーシングでご活躍中。


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元スズキワークスで、この会の首謀者でもある輝井嶂(てるいあきら)さん。自ら「本日の主役」「危険人物」と名乗るエンターテナー。マカオGPでも活躍(マカオの夜の街でも?)。


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"暁の超特急""スーパートニー"荘利光さん。SRTアパッチの荘さんです。会場となったミュージックバー「Cross-Road 39」のオーナーでもあります。「39」はホンダ時代のゼッケンだそうです。


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元ヤマハワークスの大御所、本橋明泰さん。現在はドイツのパニアメーカー・クラウザーの国内総代理店「モトコ」の会長さんです。 ヤマハのWGP50周年記念サイトもどうぞ。


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スズキワークスライダーとしてRG500で活躍されていた岩崎勝さん。のちに若きノリック(故・阿部典史選手)の所属するチームブルーフォックスで監督を務められました。「当時ノリはマシンのことは全然わかってなくて苦労しました」なんてエピソードも。


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バリー・シーンのメカニックを務められた岡本満さん(右)。つい先日もバリーのお墓参りに行ってきたとか。元スズキワークスライダー安良岡健さん(左)と。



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ホンダワークスを経て、ROC YAMAHAからWGP500に参戦していた新垣敏之選手。現在も全日本に参戦中。


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まだまだつづきます。



2012年12月10日月曜日

「ばいく〜んGoGo!」で第1回イベントの様子が公開されました

バイクオークションのBDSの運営サイト「BBB」の中に、ポッドキャストによるインターネットラジオ番組「ばいく〜んGoGo!」というのがあります。

11月の第1回トークイベントの際、小林ゆきさんがマイクと取材中のプラカード持参で録音してくれたものが編集され、この度公開となりました。

当日来られなかった方、もう一度聞きたい参加者のみなさん、ちょっと長いですけど、お時間のある時に聞いてみてください。
リンク先ページで「Play Now!! 今すぐ聞く」ボタンを押すと始まります)

ばいく〜んGoGo! Vol.22


ちなみに番組中、山本さんが「一番のお気に入りの写真です」と言っていたのはこれです。
1964年10月10日第10回MCFAJ全日本クラブマンモトクロス(伊豆丸野山高原)
125ccクラスで、荒井市次さん(2位)久保和夫さん(3位)を破って山本さんが優勝!

星野一義さんも加わって記念撮影

第2回は、2013年2月2日に久保和夫さんと加賀山就臣選手をゲストにお迎えして開催しますので、みなさんのご参加をお待ちしています!



2012年12月8日土曜日

浅間高原自動車テストコースの写真

昭和32年に作られた浅間高原自動車テストコース。

第2回浅間火山レースが開催され、翌年昭和33年には、MCFAJ第1回全日本クラブマンロードレースが、さらに昭和34年に、第2回クラブマンレースと第3回浅間火山レース同時開催・・・。

そして大藪春彦の小説「汚れた英雄」の冒頭シーンほかで登場する、北野晶夫がリヤカーにレーシングマシンを載せて現れたあの浅間のコースです。

日本のオートバイレースの原点とも言うべきコースですが、上記のわずか3年間のみレースで使用され、あとはテストコースとして利用、その後数年で役目を終えてしまったというはかない歴史があります。

その浅間のコースを昭和44年当時にコース内で撮った写真が公開されています。

当時月刊モーターサイクリストのリポーターをされていたという夢地蔵さんのサイトです。

写真提供:atelier yumejizo


火山灰で雨が降るとスゴイことになるらしいですが(第1回全日本クラブマンレース)、コンディションのいい時なら走ってみたいようなコースですね!


2012年12月7日金曜日

【人物伝】に谷口尚己さんのページを作りました

二輪文化を伝える会、人物伝に谷口尚己さんのページを作りました。

1955年(昭和30年)の第1回浅間高原レース、57年の第2回浅間火山レースに出場。そして1959年のHondaのマン島TTレース初出場の一員として参戦。このレースで6位に入賞し、日本人初の世界選手権のポイントを獲得。

※ちなみに、日本人としてマン島TTレースに初めて出場・完走したのは多田健蔵さん。その年から遡ること29年、なんと1930年(昭和5年)のことでした。

さて谷口尚己さんは、マン島での初ポイント以降もHondaのワークスライダーとして世界グランプリなどで活躍されたので、当然ながらHondaのイメージが強いのですが、実は現役引退間際にはカワサキと契約していたこともあるんですね。

1967年に富士スピードウェイでの日本GP(スタートでエンジンがかからず?リタイヤ)、その後シンガポールGPに出場して優勝を果たしています。

「シンガポールでの優勝で、売れ残っていたカワサキの在庫がきれいになくなったと聞いてますよ。」と筑波のテイストオブフリーランス(2012年6月)でお会いした時に語ってくださいました。

2012年7月の「酒井文人とクラブマンレースを語る会」での谷口さん

2012年12月1日土曜日

1964年のマン島TTレース50ccクラス

一つ前のエントリー「1963年スズキ世界GP・伊藤光夫さんマン島TT優勝の記録映像」のつづき。

1964年の世界GP第5戦イギリス・マン島TTレース50ccクラスの決勝のカラー映像です。

スズキとホンダ、クライドラーの他にトーハツも参戦してますね。
(正直クライドラーというメーカーについてほとんど知らない...)


これも当時のSUZUKIのエンジニア、中野広之さんの「1964年世界選手権レース」(日本モーターサイクルレースの夜明け)とあわせてどうぞ。

優勝はスズキのアンダーソン。予選トップの#18伊藤光夫さんはマシン不調で5位、連覇ならず。#7森下勲さんが3位。
Hondaの#18谷口尚己さんが6位、Suzukiの#2越野晴雄さんは3位につけていながら野ネズミを避け損なって転倒リタイヤ。

2012年11月30日金曜日

1963年スズキ世界GP・伊藤光夫さんマン島TT優勝の記録映像

1963年(昭和38年)に世界GPを戦ったスズキの記録映像です。

エンジン音も当時の本物みたいですね。50ccの甲高いエキゾーストノートが聞けます。
Hondaでは125ccで高橋国光さんも走っています。

Part1は、第1戦スペイン(バルセロナ)、第2戦西ドイツ(ホッケンハイム)、第3戦フランス(グレルモンフェラン)、第4戦イギリス(マン島)の紹介まで。
Part2は、第4戦イギリス(マン島)の125ccと50ccの予選と決勝。

このマン島TTレース50ccクラスでスズキの伊藤光夫さんが日本人として初優勝したのです。
日の丸が揚がってます! 君が代が流れてます!

素晴らしい!

当時のスズキのエンジニア中野広之さんの「TTレ-ス伊藤光夫優勝、50・125ccダブルタイトル獲得」(日本モーターサイクルレースの夜明け)もあわせてどうぞ。



2012年11月28日水曜日

祝 RIDING SPORT 創刊30周年! 伝える会も・・・

ロードレース専門誌ではありますが、RIDING SPORT誌が創刊30周年とのことです。

おめでとうございます!

今月号は「創刊30周年記念特製メモリアルブック」付。



本編よりも先にメモリアルブックのほうを読み込んでしまいました。
私は80年代半ばからのレースブーム・バイクブーム世代なので、同じような方がたくさんいるんじゃないですかね?

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「二輪文化を伝える会」は、特にレースの話に限定しているわけではないのですが、いつの時代でもレース・競技というのがこの世界を引っ張っていくものと感じています。

もちろん、バイクの世界はレースだけではありません。いろんな楽しみ方があります。鉄道ファンに匹敵するくらい、バイクファンも多様だと思います。その中でレース好きっていうのはほんの一部かもしれません。
でも、やはりレースっていうのは、一般の人にも分かりやすいですし象徴的だと思うのです。

それとレース場に流れるあのエネルギーの塊のような雰囲気。バイク系のイベントは多々あれど、情熱や魂のぶつかり合いみたいなあの独特の空気感は、やはりレースならではと思うんですね。
それが人を惹きつけるし、物事を動かす源になっている。歴史的に見ても。

ということで、これからも、先輩方のレースやバイクに注いだ情熱について、熱く伝えていけたらと思います。

「二輪文化を伝える会」も30周年を目標に、細く長く熱くがんばっていきます!

(まっしま)

2012年11月22日木曜日

第2回ディナーショーは、久保和夫さん with 加賀山就臣選手!

ようやっと第1回の開催報告アップしましたが、ここで第2回のトークイベント「二輪文化を伝える会」ディナーショーについて発表します。

第2回は2013年2月2日(土)に開催します。

ゲストは・・・

昭和30年代に城北ライダースの設立メンバーで、日本の第1期モトクロス時代に活躍し、スズキワークスライダーとして世界GPにも参戦、のちにSRS KUBOの監督としてロードレースライダーの育成にも情熱を傾けられた「久保和夫」さんです。



そして久保さんの愛弟子で、スズキのマシンを駆り、GP250・GP500・MotoGP・SBなどなどのマシンで、全日本・世界GP・スーパーバイク・鈴鹿8耐で活躍、現在も全日本JSBクラスに自チームで参戦されている加賀山就臣選手にも来ていただくことになりました!


場所は第1回と同じくJR品川駅直結のアトレ品川4Fカフェダイニング「トランスファー」です。
時間は午後6時(開場)からの予定です。

詳細・参加申し込みは、イベント情報のページをご覧ください。

久保さんのお話は、今まであまり聞いたことがないので、これはなかなか貴重な機会だと思います。

みなさんのご参加をお待ちしています!

2012年11月21日水曜日

第1回トークショー開催レポートアップしました





なんかブログを少し詳しくしただけみたいになってしまいましたが、ホームページは記録として、ブログは速報としてなので。


伝える会のプレートを持っての撮影にご協力いただいたみなさんです!




さてさて。
ひきつづき第2回を来年2月に開催予定です!

ただいま告知ページを作成中です。
もうちょっとお待ちください。

2012年11月12日月曜日

第1回トークイベント終了しました:ありがとうございました!

二輪文化を伝える会、第1回のイベントが終了しました。

ご参加いただいた皆さん、そしてゲストの古谷さん、山本さん、ありがとうございました!

土曜日は、山本さんがサプライズゲストとして、星野一義さん、金子豊さん、岡部能夫さん(三人とも元カワサキのライダー、カワサキコンバットのメンバーの方々です)を呼んでくださいまして、おおいに盛り上がりました。


昔の写真を見て星野さんも懐かしがっていました。



この日の星野さんはもう完全に「ライダー星野」「カワサキの星野」でした!
当時大好きでよく描いていたというCB72のイラスト、その場で描いてくださったものです!超貴重品!


*

日曜は一転、テーブルを囲んでじっくりお話を聞く会となり、濃密な時間となりました。


山本さんにはバイクの乗りはじめの頃から、じっくりお話をお聞きしました。明かせない裏話ももちろん有り!

*
とりあえず速報でした。
開催レポートはあらためてイベント報告としてホームページに掲載します。

「二輪文化を伝える会」として、これでまずはじめの一歩を踏み出せたような気がします。

今後ともどうぞよろしくお願い致します!

2012年11月8日木曜日

二輪文化を伝える会のカードです


二輪文化を伝える会では、カード会員の一般募集をもうすぐスタートさせます。


このカードは、NPO法人The Good Timesの会員システムを利用しています。

ですので、The Good Timesのカードでもあり、二輪文化を伝える会のカードでもあります。

入会金1,000円で年会費等はありません(これもThe Good Timesの仕組みです)。

申し込み方法など詳細はまた追ってお知らせいたします。


よろしくお願い致します!!

2012年10月31日水曜日

11/10,11 トークショー 参加者募集中


11月10日と11日に二輪文化を伝える会の第1回トークイベントを品川で開催します。
ゲストはMFJ全日本モトクロス初代チャンピオンの山本隆さんとカワサキOBの古谷錬太郎さん。


今回は山本さんと古谷さんに、カワサキの二輪事業・レース活動の初期~山本さんのMFJモトクロス3年連続チャンピオンの時代(昭和35〜45年頃)を中心にお話しいただく予定です。


右の写真は1967年全日本選手権岡山での山本さん。お隣にいるのは星野一義さんです。(写真:ホーリーエクイップさんより)
山本さんは星野さんのお師匠さんでもあるんです!当日はそのあたりのお話もじっくり聞きたいと思ってます。

まだ両日とも席に余裕があります。みなさん大先輩のお話を聞きに来てください!

詳細、参加申し込みはホームページからできます。

2012年10月17日水曜日

二輪文化を伝える会のプレートができました!

「二輪文化を伝える会」のプレートができました!

写真を撮る時に使おうと思ってます。

ご賛同いただいたみなさんと記念撮影してアルバムにまとめてみようかと。

ご協力よろしくお願いします!

・・・顔出しNGの場合は後ろ姿とかプレートで顔を隠すとかで・・・(^^;

この会の統括・村島さん(右)と
このプレートの制作を手配してくれた企画担当・早川さん

2012年10月7日日曜日

11月10日・11日に第1回トークショー開催!


11月10日と11日、東京・品川にて二輪文化を伝える会・第1回のトークショーを開催します。

ゲストはMFJ初代モトクロスチャンピオン山本隆さんとカワサキ二輪事業の初期から携わってきた古谷錬太郎さん。

場所はJR品川駅直結のアトレ品川4Fカフェダイニング・トランスファー。
10日(土)17:00〜20:00、11日(日)10:45〜13:45
各日とも30名様限定です。

おふたりには貴重な日本のバイクの歴史・カワサキのレースの歴史についてお伺いします。

関東でおふたりのお話が聞ける機会はなかなかないと思います。

詳細・お申込みはイベント情報のページから。

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2012年9月24日月曜日

二輪文化を伝える会のトークイベントへの思い

日本のオートバイはいつ頃から作られ始めたのか?
製造会社はこれまでにどのくらい存在したのか?
車両開発者はどのような夢を抱き、製品にしていったのか?
国内から海外へ、世界に向けてのモノ作りの現場にはどんな野望や苦労があったのか?
車両の性能を競うレースはいつどこで始まったのか?
人々はオートバイにどんな夢や希望やロマンを感じていたのか?

黎明期のレースに出場された方、過去に存在していたメーカーで製造に携わっていた方、世界を制するために心血を注いだ方・・・。
オートバイやレースに関係の深い方々の、貴重な体験談、汗と涙の苦労話、今でも語り継がれる伝説などなど、ご本人からリアルに当時の話を聞くことができたならどんなに素晴らしいことでしょう!

そんな思いの実現を目指したのが「二輪文化を伝える会」のトークイベントです。

ホームページでは、オートバイやレースの歴史をひも解き、トークショーではご本人から直接そのお話を聞く。この二本立てで二輪の歴史、日本の二輪文化の素晴らしさを多くの方々に伝えたいと思っています。

ゲストと参加者みなさまが一体になったひととき。料理にもこだわり、食べながら飲みながらのご歓談。
次も参加したいと思っていただけるような機会を数多く作っていきたいと考えております。
(村島)


レースが終わった後のパドック。レース前のピリピリした空気から、ちょっと和んだ雰囲気に包まれる夕暮れのこの時間が私は好きです。
ライダーやスタッフと応援に来た人たちが、今日のレースを振り返って談笑するような、そんな雰囲気のイベントにできたらと思っています。
(松島)

2012年9月3日月曜日

メグロの歴史:目黒製作所と北見さん


「日本のオートバイ・
CATALOG COLLECTION」
(双葉社)から
「メグロ」というブランドが、カワサキと関係がある、という程度の知識しかありませんでした。

メグロは目黒製作所が作ったオートバイ。

メグロの履歴室」を参考にその創業エピソードを振り返ると・・・。

目黒製作所は、1924年(大正13年)に創業。
日本のオートバイメーカーの中でもかなりの老舗と言えるでしょう。

創業者が目黒さんだったかというと、そうではなく、村田延治さん。

ではなぜ「目黒製作所」?

所在地の荏原郡から取ることを考えるが、当時既に(株)荏原製作所が盛業中であり、「製作所」の語尾を付けたい二人には、この案は取れなかった。当時工場名に「製作所」と入れることが流行り、また信頼の高い事業所も多かったこともあり、はずせなかった。では、と桐ヶ谷とすれば近所に火葬場があり印象が悪い。思案した末、選んだのが「目黒」であった。目黒の街からはやや離れてはいるが、この周辺を「目黒」と称していたことと、河川や近所にあったお不動さんも競馬場も「目黒」なのだし、これなら良いだろう・・・と。
ここに「目黒製作所」の創業をみたのである。
~メグロの履歴室~:目黒製作所創業まで(2)
ということで「目黒製作所」となったらしい。

*

ここから長いメグロの歴史が始まります。
カワサキに吸収される昭和39年で終わってしまったわけではなく、今も「W」をはじめカワサキのオートバイにその血は流れ続けています。

中央が北見さん。
(左は元チームグリーン監督平井さん、右は元カワサキ古谷さん)
夏にお会いした北見紀生さん。
カワサキZ系のチューナーとして今も多くのファンがいる方ですが、北見さんはメグロのご出身。
確か入社は昭和28年とおっしゃっていたかな。当時は30人くらいの町工場で、そのあと会社は巨大化し、労使紛争があり、やがてカワサキへ、という一連の歴史を社内で見てこられた方です。


2012年8月30日木曜日

メイハツ、メグロ、そしてカワサキ

戦後、日本には本当にたくさんのメーカーがあり、それぞれ特徴的な生い立ちがあります。

その中でも、カワサキ(のオートバイ)の成り立ちはなかなかわかりづらいんです。

画像は「栄光のモーターサイクル列伝」から

もちろん、もともとは川崎正蔵さんによる川崎造船所からはじまるのですが(正確には川崎築地造船所かな。のちの川崎重工業)、二輪車の製造に関しては、戦後、自転車用エンジンの供給を開始したところから。

ざっくり整理してしまうと、戦後に川崎航空機が製造した小型2サイクルエンジンの供給先として川崎明発工業(メイハツ)ができ、その後に大型4サイクル車が主力だったメグロを吸収して、今のカワサキとなるんですね。ざっくりし過ぎですけど。

そうして、WやMachやZといった名車たちが、生まれてくるわけです。

おおまかな流れについては、「栄光のモーターサイクル列伝:カワサキ」でつかめると思います。

2012年8月29日水曜日

東京発動機・トーハツの歴史

1955年(昭和30年)にオートバイの国内トップシェアを誇っていたのは東京発動機(トーハツ)でした。

東京発動機は、現在トーハツ株式会社となり、消防ポンプと船外機などを製造するメーカーさんです。
そのホームページ内に「トーハツの歩み Since 1922」という特設ページがあったので内容をまとめてみました。

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1922年(大正11年)にエンジン研究者の高田益三さんと彼をサポートする武井銀次さんが出会い、前身の高田モーター研究所が設立されたところから始まります。

発動機付き揚水ポンプ、発電機、船外機などを製作し、やがて時代とともに軍需工場として成長します。

戦後、可搬消防ポンプを開発、バイク用のエンジンを作ることで再興。
1950年(昭和25年)には「トーハツ号」が登場します。

そして1955年(昭和30年)には、125ccが主流の第2次オートバイブームもあり、「PK-55型」(125cc)が好調で国内トップメーカーとなります。

ところが1957年(昭和32年)に入ると2輪車の販売のかげりにより急速な不振に陥ります。

ロードスポーツ車への変化に遅れを取ったのも原因のひとつということで、巻き返しを図るべく、1960年(昭和35年)に50ccロードスポーツ車ランペットCAを発売。翌年にはさらにスポーティなCA2を発売し、各地のスクランブルレースなどクラブマンレースで大活躍します。

画像は「トーハツの歩み」から

また、125ccクラスではトーハツ最初の2気筒エンジンを積んだトーハツスポーツLD3が発売され、1962年には、市販レーサーとしてトーハツスクランブラーTR250(2気筒250cc)、ランペットCR2(ランペットスポーツをレース仕様にチューニング)を発表。

これらの1960年から連続的に発表されたバイクの評価は非常に高かったのですが、悪化していた経営状態を建直すことはできずに、1964年(昭和39年)に倒産、会社更生法の適用となります。

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これによりトーハツの二輪車の生産は中止されることになるのでした。

画像は「私設『北野晶夫の世界』」から


レース関係も含めて、こちらのサイトにすごくよくまとめられてました。(→私設「北野晶夫の世界」:東京発動機

(追記)
こちらにはトーハツの各車種を中心にまとめられています。(→栄光のモーターサイクル列伝:トーハツ、ブリヂストン

昭和37年 鈴鹿サーキットオープン時の4大メーカーと言えば...

鈴鹿サーキットがオープンしたのは1962年(昭和37年)。

一時は150社を超える数が存在したと言われる日本のバイクメーカーですが、激しい生き残り競争の末、この頃には10社程度に淘汰されていたようです。

画像は「鈴鹿サーキット50年の歴史」から

鈴鹿サーキットのこけら落としとなった第1回全日本ロードレース大会。
大久保力さんの「サーキット燦々」(三栄書房)によると、
1950年頃には約70のメーカーが存在したが、スズカ完成の1962年には10社以下に減り、レース参加メーカーはホンダ、ヤマハ、スズキ、トーハツの四社、他は外車所有の個人や輸入元である。
とあります。

鈴鹿サーキットオープン時の4大メーカーといえば、ホンダ、ヤマハ、スズキと、東京発動機・トーハツだったのですね。
実際トーハツは、1955年頃は国内シェアNo.1だったとのことです。

カワサキが本格的にレースに関わるのはこの後ということですね。
そしてトーハツは、このすぐ後(1964年2月)には倒産、会社更生法の適用という事態になってしまいます。(→Wikipedia


2012年8月22日水曜日

GSバッテリー、その名の由来は・・・

トリビア的雑学です。


1909年(明治42年)に日本で初めての国産オートバイ「NS号」を作った島津楢蔵さん。

その島津楢蔵さんについて調べていて、「島津源蔵」さんというお名前に出くわしました。(このおふたりに血縁関係はないそうです)

島津源蔵さんは、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんの務める会社「島津製作所」の二代目社長であり、「日本のエジソン」とも呼ばれるような大発明家でした。

島津源蔵さんのイニシャルはGS。

あの「GSバッテリー」を作った方でした!

現在は、ジーエス・ユアサバッテリー
ガソリンスタンド用のバッテリーでも、Grand なんとかでも、Generalなんとかの略でもなかったのですね。(私、全然知りませんでした。。。)

ちなみに、島津楢蔵さんの作ったNS号のNSもイニシャルですね。

【人物伝】島津楢蔵


2012年8月21日火曜日

浅間から鈴鹿へ。そして「カワサキ」の登場

今年、鈴鹿サーキットは開場50周年。
1962年(昭和37年)の9月にオープンしたわけです。

浅間から鈴鹿サーキットオープンまで、どんな流れだったかをおさらいしてみます。

浅間高原自動車テストコースができて第2回浅間火山レースが開催されたのは1957年(昭和32年)。その後クラブマンレースも含め、1959年(昭和34年)まで浅間のコースでレースが開催されます。

画像は「浅間火山レース2 - 日本のモータースポーツ黎明期物語 砂子義一伝説」より


浅間でのレースの成果でオートバイの性能も上がる反面、技術競争や販売競争に敗れたメーカーがだんだんと二輪車事業から撤退・廃業することに。

そして早くも1960年(昭和35年)にはコースの安全性や、コースを舗装するにはお金がかかりすぎる等の理由で、浅間高原テストコースでのレースの開催はされなくなってしまうのです。

すでに同じ時期、ホンダ、スズキ、ヤマハの各社は、マン島TTレースをはじめ世界グランプリに出場するようになっていて、日本にも舗装コースの必要性が求められてきました。

そこでホンダが鈴鹿に国際レーシングコースの建設を計画。1961年(昭和36年)に着工、1962年(昭和37年)9月に竣工、11月にはこけら落としとして第1回全日本ロードレース大会が開催されたのでした。

画像は「鈴鹿サーキット50年の歴史」から

ここで、速遅速遅密疎密疎(はおはおみそみそ)資料-5 メーカー別生産台数を見てみると、この1962年前後に、宮田製作所・丸正自動車・メグロ(カワサキに吸収)・平野製作所・トーハツ・山口自転車などが撤退しています。

ところで、カワサキの名があまり表に出て来ません。

1953年(昭和28年)に、当時の川崎航空機が明発工業を設立し、エンジンを供給して二輪車製造(メイハツ)には関わって来ましたが、「カワサキ」の名が出てくるのは、1961年にメイハツとメグロ販売を吸収してカワサキ自動車販売ができてからということでしょうか。(Team Green 平井稔男元監督のブログより)

ここからのカワサキの詳しい内部の動き(!)は、川崎重工OBでありNPO法人TheGoodTimes理事長の古谷錬太郎さんが、ブログ「雑感日記」の中で「二輪文化を伝える会」のために纏めてくださった「鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第1回)」「鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第2回)」でいろいろ知ることができますよ!

2012年8月17日金曜日

日本で初めてのオートバイレース(エキシビション)

日本で初めてのオートバイレースは、1914年(大正3年)(※1912年・明治45年 文末に追記あり)に鳴尾競馬場で開かれた、と言われています。

この鳴尾競馬場でのレースについてちょっと調べてみようとしたら・・・。

日本財団図書館で読める「公営競技の文化経済学」の「公営ギャンブルの歴史:五、オートレース」によると、
最初のレースは一九一〇(明治43)年一一月に不忍池のほとりで開かれた自転車競争の余興であった。オートレースとしては一九一四(大正3)年に兵庫県鳴尾競馬場で行われたのが最初で、翌年には東京目黒競馬場で行われている。
(オートレースといっても今のものとは違い、いわゆるダートトラックレース)
とあります。

大正3年の鳴尾競馬場でのレース以前にも、らしきもの(エキシビションレース?)はあったようですね。
で、「1910年 不忍池 自転車競争」で検索してみると、どうやらそれは「内外連合自転車競争運動会」という大会だったようです。

さらに、「内外連合自転車競争運動会 オートバイ 1910年」で検索すると、「日本自転車資料年表(江戸・明治編)」というページが見つかりました。が、そこには
1901年11月4日 時事新報 上野不忍池で自転車競走会の余興として 本邦初のオートバイ・レースが行われる
と書かれています。
ん?1901年?

画像は「上野観光連盟公式サイト」から


1910年か1901年か。単なる誤植か勘違いか。
オートバイの渡来は1903年だったと言われていたりもしたので、1901年は間違いなのかなぁ・・・。

今度は「不忍池 オートバイレース」で検索してみると、なんと島津楢蔵さんに繋がります。
モーターサイクル伝来」のところで参考にさせてもらった「私的二輪史研究『日本のオートバイの歴史』」での記述。
1903年(明治36年)
父親から米国製ピアス号自転車を買って貰う。桜島での自転車レースに出場
東京の不忍池で初めてオートバイを見る
むむむ。
しかも1903年?

ならば島津楢蔵さんの弟・山口銀三郎さんのお孫さんである山口宗久さんの「日本のモータリゼーションを作った明治の男の物語/島津楢蔵、山口銀三郎」に年表が出ていたから見てみよう。

すると
1900年(M33) 島津常次郎・楢蔵・銀三郎に自転車を買い与える
...楢蔵が、同年大阪桜島で開催された自転車レースに出場したり、東京上野不忍池で行われた自転車レースを見物するために上京し、余興として走行したモーターサイクルに感動したという記述もある。
おやおや?1900年?

ただこれは、実際に何年のことか定かでないようで、「ライト兄弟の自転車」のページには、
残念ながらこの写真には裏書きがなく、従って湯川氏の著述によると1900年(明治33年)、銀三郎のノートには高等小学校2年のとき、つまり1903年 (明治36年)とあり、またこのバン・クリーブという自転車の販売が開始されたのが1901年という記録もありで、今のところ正確な年が確定できない。
こうなると1910年より1901年のほうが有力な気がします。

この先は時事新報を調べるしかないですね。
ちなみに時事新報とは、福沢諭吉が創刊した日刊新聞です。慶応大学図書館に行くと発行新聞の全てが残っているそうです。
一般公開しているのかな?


【追記】(2015.2.11)
明治45年(1912年)5月5日に鳴尾競馬場で開かれた「第1回自動自転車競走会」が、日本で最初に開かれたオートバイだけによる大規模なレースのようです。(出典:Old-timer No.3「戦前オートバイ競走史1・関西競馬界と鳴尾競馬場の記録」八重洲出版)



  【人物伝】島津楢蔵 - 二輪文化を伝える会
 【amazon】公営競技の文化経済学 (文化経済学ライブラリー)

2012年8月16日木曜日

「ShinMaywa」と「ポインター」

街で見かけるゴミ収集車。
4トントラックのパワーゲート。
車の後部に「ShinMaywa」のステッカーが貼ってあるの見たことあります。

ゴミ収集車などの特装車両や航空機事業を展開する新明和工業

この新明和工業が、かつて「ポインター」というオートバイを作っていたんですね。
(当時は新明和興業。→新明和工業:会社沿革

ポインターも名前だけは知っていたんですが、メーカー名までよく知りませんでした。

こんなバイクです。

第2回浅間火山レースのポインターPA
画像は、私設「北野晶夫の世界」から


1959(昭和34)年 浅間火山レース&クラブマンレースの映像

"静じい"さまよりご提供いただいた貴重映像第2弾。

1959年・昭和34年8月の第3回浅間火山レース&第2回全日本クラブマンレースの映像です。

この年ホンダはマン島に初挑戦(6月)、チーム賞を獲得しましたが、この浅間の125ccクラスではそのホンダワークス(RC142)を抑えて、北野元選手が市販車(CB92)で優勝するという快挙を成し遂げたのでありました。(→Wikipedia


2012年8月15日水曜日

1958年カタリナGPとヤマハWGP参戦50周年サイト

今年は鈴鹿サーキット開場50周年だったり、カワサキZ1発売40周年だったりしますが、昨年(2011年)はヤマハが世界グランプリ参戦50周年でした。

その特設サイト「ヤマハWGP参戦50周年記念スペシャルサイト」がかなり充実していて見応えがあります。

年代別の解説、ワークスライダー・ワークスマシン一覧、時代ごとのストーリー。ずっと残しておいて欲しいサイトです。

世界グランプリへの参戦は、ホンダ、スズキに次いで1961年からとなりますが、その前の1955年の富士登山レース、1958年のアメリカ・カタリナGP参戦についても触れられています。

伊藤史朗がトラブルを抱えながら6位に入賞したカタリナGPの動画。




2012年8月11日土曜日

浜松のバイクの歴史

バイクのふるさと浜松」というサイトがあります。
浜松市の産業振興課が運営するサイトのようです。

文字通り浜松発祥のバイクメーカーについての資料があり、なかなか参考になります。
(ホンダ・ヤマハ・スズキ・丸正の歴史、昔のオートバイ広告など)

特に、「浜松オートバイ列伝関連年表」は、各メーカーの動き、時代の流れがわかりやすいです。



「二輪文化を伝える会」の年表も、こんな感じで各メーカーとレースの歴史、時代の流れとあわせて見られるようなものにしたいと思っているのです。

2012年8月7日火曜日

日本のモータリゼーションを作った明治の男の物語


明治41年に自作ガソリンエンジンを作った島津楢蔵さんのつづき。
島津楢蔵さんの弟、山口銀三郎さんの孫である山口宗久さんによる「日本のモーターリゼーションを作った明治の男の物語」に紹介されていた、島津楢蔵著の「モーターサイクル」の一節です。

いやーたまんないですね!

「初めてエンジンが回ったその時」
“狂奮”
希望に燃え希望に悩んだ半疑の試し
青い焔を吐きつゝとぎれとぎれの
爆音たてゝ
処女作のエンヂンが産声を挙げた一瞬
全身の血潮は過熱して沸騰したのか
常態を失して、もう大地に足が着かない...
(つづきはリンク先で→「初めてエンジンが回ったその時」)

画像は「日本のモータリゼーションを作った明治の男の物語」より


日本のモーターリゼーションを作った明治の男の物語

2012年8月3日金曜日

国産オートバイ1号車「NS号」

NS号や島津楢蔵さんについても、ちょっと調べると面白そうな話がいっぱい出てきます。

とりあえず今日は2つだけ。

国産オートバイ1号車「NS号」
画像は「日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン」より

何をもって「国産」なのかはありますが、島津楢蔵さんはこの前年1908年に2サイクルエンジンを作り、すぐに4サイクルに方向転換して試作。
その試作エンジンを載せて、1909年に作られたのがNS号。(本人のイニシャルですね)
これは間違いなく国産車と言えるでしょう。

島津楢蔵さんも面白そうな人で、この後、航空機エンジンの開発に傾倒。さらに機体製作に取り組もうとするも、個人・町工場の規模ではもはや無理ということになり、自動車学校を設立。
それも大正11年に閉校となり、オートバイの開発に戻ってくることになったそうです。

ちなみにライト兄弟が世界で初の有人動力飛行に成功したのが、約6年ほど前の1903年12月のこと。

このNS号。「NMC号」という名で約20台売り出されたとか。
でも「日本初の国産市販車」とは言われないのです。


1909年 国産オートバイ1号車 NS号 完成 - 二輪文化を伝える会