2012年8月30日木曜日

メイハツ、メグロ、そしてカワサキ

戦後、日本には本当にたくさんのメーカーがあり、それぞれ特徴的な生い立ちがあります。

その中でも、カワサキ(のオートバイ)の成り立ちはなかなかわかりづらいんです。

画像は「栄光のモーターサイクル列伝」から

もちろん、もともとは川崎正蔵さんによる川崎造船所からはじまるのですが(正確には川崎築地造船所かな。のちの川崎重工業)、二輪車の製造に関しては、戦後、自転車用エンジンの供給を開始したところから。

ざっくり整理してしまうと、戦後に川崎航空機が製造した小型2サイクルエンジンの供給先として川崎明発工業(メイハツ)ができ、その後に大型4サイクル車が主力だったメグロを吸収して、今のカワサキとなるんですね。ざっくりし過ぎですけど。

そうして、WやMachやZといった名車たちが、生まれてくるわけです。

おおまかな流れについては、「栄光のモーターサイクル列伝:カワサキ」でつかめると思います。

2012年8月29日水曜日

東京発動機・トーハツの歴史

1955年(昭和30年)にオートバイの国内トップシェアを誇っていたのは東京発動機(トーハツ)でした。

東京発動機は、現在トーハツ株式会社となり、消防ポンプと船外機などを製造するメーカーさんです。
そのホームページ内に「トーハツの歩み Since 1922」という特設ページがあったので内容をまとめてみました。

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1922年(大正11年)にエンジン研究者の高田益三さんと彼をサポートする武井銀次さんが出会い、前身の高田モーター研究所が設立されたところから始まります。

発動機付き揚水ポンプ、発電機、船外機などを製作し、やがて時代とともに軍需工場として成長します。

戦後、可搬消防ポンプを開発、バイク用のエンジンを作ることで再興。
1950年(昭和25年)には「トーハツ号」が登場します。

そして1955年(昭和30年)には、125ccが主流の第2次オートバイブームもあり、「PK-55型」(125cc)が好調で国内トップメーカーとなります。

ところが1957年(昭和32年)に入ると2輪車の販売のかげりにより急速な不振に陥ります。

ロードスポーツ車への変化に遅れを取ったのも原因のひとつということで、巻き返しを図るべく、1960年(昭和35年)に50ccロードスポーツ車ランペットCAを発売。翌年にはさらにスポーティなCA2を発売し、各地のスクランブルレースなどクラブマンレースで大活躍します。

画像は「トーハツの歩み」から

また、125ccクラスではトーハツ最初の2気筒エンジンを積んだトーハツスポーツLD3が発売され、1962年には、市販レーサーとしてトーハツスクランブラーTR250(2気筒250cc)、ランペットCR2(ランペットスポーツをレース仕様にチューニング)を発表。

これらの1960年から連続的に発表されたバイクの評価は非常に高かったのですが、悪化していた経営状態を建直すことはできずに、1964年(昭和39年)に倒産、会社更生法の適用となります。

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これによりトーハツの二輪車の生産は中止されることになるのでした。

画像は「私設『北野晶夫の世界』」から


レース関係も含めて、こちらのサイトにすごくよくまとめられてました。(→私設「北野晶夫の世界」:東京発動機

(追記)
こちらにはトーハツの各車種を中心にまとめられています。(→栄光のモーターサイクル列伝:トーハツ、ブリヂストン

昭和37年 鈴鹿サーキットオープン時の4大メーカーと言えば...

鈴鹿サーキットがオープンしたのは1962年(昭和37年)。

一時は150社を超える数が存在したと言われる日本のバイクメーカーですが、激しい生き残り競争の末、この頃には10社程度に淘汰されていたようです。

画像は「鈴鹿サーキット50年の歴史」から

鈴鹿サーキットのこけら落としとなった第1回全日本ロードレース大会。
大久保力さんの「サーキット燦々」(三栄書房)によると、
1950年頃には約70のメーカーが存在したが、スズカ完成の1962年には10社以下に減り、レース参加メーカーはホンダ、ヤマハ、スズキ、トーハツの四社、他は外車所有の個人や輸入元である。
とあります。

鈴鹿サーキットオープン時の4大メーカーといえば、ホンダ、ヤマハ、スズキと、東京発動機・トーハツだったのですね。
実際トーハツは、1955年頃は国内シェアNo.1だったとのことです。

カワサキが本格的にレースに関わるのはこの後ということですね。
そしてトーハツは、このすぐ後(1964年2月)には倒産、会社更生法の適用という事態になってしまいます。(→Wikipedia


2012年8月22日水曜日

GSバッテリー、その名の由来は・・・

トリビア的雑学です。


1909年(明治42年)に日本で初めての国産オートバイ「NS号」を作った島津楢蔵さん。

その島津楢蔵さんについて調べていて、「島津源蔵」さんというお名前に出くわしました。(このおふたりに血縁関係はないそうです)

島津源蔵さんは、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんの務める会社「島津製作所」の二代目社長であり、「日本のエジソン」とも呼ばれるような大発明家でした。

島津源蔵さんのイニシャルはGS。

あの「GSバッテリー」を作った方でした!

現在は、ジーエス・ユアサバッテリー
ガソリンスタンド用のバッテリーでも、Grand なんとかでも、Generalなんとかの略でもなかったのですね。(私、全然知りませんでした。。。)

ちなみに、島津楢蔵さんの作ったNS号のNSもイニシャルですね。

【人物伝】島津楢蔵


2012年8月21日火曜日

浅間から鈴鹿へ。そして「カワサキ」の登場

今年、鈴鹿サーキットは開場50周年。
1962年(昭和37年)の9月にオープンしたわけです。

浅間から鈴鹿サーキットオープンまで、どんな流れだったかをおさらいしてみます。

浅間高原自動車テストコースができて第2回浅間火山レースが開催されたのは1957年(昭和32年)。その後クラブマンレースも含め、1959年(昭和34年)まで浅間のコースでレースが開催されます。

画像は「浅間火山レース2 - 日本のモータースポーツ黎明期物語 砂子義一伝説」より


浅間でのレースの成果でオートバイの性能も上がる反面、技術競争や販売競争に敗れたメーカーがだんだんと二輪車事業から撤退・廃業することに。

そして早くも1960年(昭和35年)にはコースの安全性や、コースを舗装するにはお金がかかりすぎる等の理由で、浅間高原テストコースでのレースの開催はされなくなってしまうのです。

すでに同じ時期、ホンダ、スズキ、ヤマハの各社は、マン島TTレースをはじめ世界グランプリに出場するようになっていて、日本にも舗装コースの必要性が求められてきました。

そこでホンダが鈴鹿に国際レーシングコースの建設を計画。1961年(昭和36年)に着工、1962年(昭和37年)9月に竣工、11月にはこけら落としとして第1回全日本ロードレース大会が開催されたのでした。

画像は「鈴鹿サーキット50年の歴史」から

ここで、速遅速遅密疎密疎(はおはおみそみそ)資料-5 メーカー別生産台数を見てみると、この1962年前後に、宮田製作所・丸正自動車・メグロ(カワサキに吸収)・平野製作所・トーハツ・山口自転車などが撤退しています。

ところで、カワサキの名があまり表に出て来ません。

1953年(昭和28年)に、当時の川崎航空機が明発工業を設立し、エンジンを供給して二輪車製造(メイハツ)には関わって来ましたが、「カワサキ」の名が出てくるのは、1961年にメイハツとメグロ販売を吸収してカワサキ自動車販売ができてからということでしょうか。(Team Green 平井稔男元監督のブログより)

ここからのカワサキの詳しい内部の動き(!)は、川崎重工OBでありNPO法人TheGoodTimes理事長の古谷錬太郎さんが、ブログ「雑感日記」の中で「二輪文化を伝える会」のために纏めてくださった「鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第1回)」「鈴鹿50周年と当時のカワサキ(第2回)」でいろいろ知ることができますよ!

2012年8月17日金曜日

日本で初めてのオートバイレース(エキシビション)

日本で初めてのオートバイレースは、1914年(大正3年)(※1912年・明治45年 文末に追記あり)に鳴尾競馬場で開かれた、と言われています。

この鳴尾競馬場でのレースについてちょっと調べてみようとしたら・・・。

日本財団図書館で読める「公営競技の文化経済学」の「公営ギャンブルの歴史:五、オートレース」によると、
最初のレースは一九一〇(明治43)年一一月に不忍池のほとりで開かれた自転車競争の余興であった。オートレースとしては一九一四(大正3)年に兵庫県鳴尾競馬場で行われたのが最初で、翌年には東京目黒競馬場で行われている。
(オートレースといっても今のものとは違い、いわゆるダートトラックレース)
とあります。

大正3年の鳴尾競馬場でのレース以前にも、らしきもの(エキシビションレース?)はあったようですね。
で、「1910年 不忍池 自転車競争」で検索してみると、どうやらそれは「内外連合自転車競争運動会」という大会だったようです。

さらに、「内外連合自転車競争運動会 オートバイ 1910年」で検索すると、「日本自転車資料年表(江戸・明治編)」というページが見つかりました。が、そこには
1901年11月4日 時事新報 上野不忍池で自転車競走会の余興として 本邦初のオートバイ・レースが行われる
と書かれています。
ん?1901年?

画像は「上野観光連盟公式サイト」から


1910年か1901年か。単なる誤植か勘違いか。
オートバイの渡来は1903年だったと言われていたりもしたので、1901年は間違いなのかなぁ・・・。

今度は「不忍池 オートバイレース」で検索してみると、なんと島津楢蔵さんに繋がります。
モーターサイクル伝来」のところで参考にさせてもらった「私的二輪史研究『日本のオートバイの歴史』」での記述。
1903年(明治36年)
父親から米国製ピアス号自転車を買って貰う。桜島での自転車レースに出場
東京の不忍池で初めてオートバイを見る
むむむ。
しかも1903年?

ならば島津楢蔵さんの弟・山口銀三郎さんのお孫さんである山口宗久さんの「日本のモータリゼーションを作った明治の男の物語/島津楢蔵、山口銀三郎」に年表が出ていたから見てみよう。

すると
1900年(M33) 島津常次郎・楢蔵・銀三郎に自転車を買い与える
...楢蔵が、同年大阪桜島で開催された自転車レースに出場したり、東京上野不忍池で行われた自転車レースを見物するために上京し、余興として走行したモーターサイクルに感動したという記述もある。
おやおや?1900年?

ただこれは、実際に何年のことか定かでないようで、「ライト兄弟の自転車」のページには、
残念ながらこの写真には裏書きがなく、従って湯川氏の著述によると1900年(明治33年)、銀三郎のノートには高等小学校2年のとき、つまり1903年 (明治36年)とあり、またこのバン・クリーブという自転車の販売が開始されたのが1901年という記録もありで、今のところ正確な年が確定できない。
こうなると1910年より1901年のほうが有力な気がします。

この先は時事新報を調べるしかないですね。
ちなみに時事新報とは、福沢諭吉が創刊した日刊新聞です。慶応大学図書館に行くと発行新聞の全てが残っているそうです。
一般公開しているのかな?


【追記】(2015.2.11)
明治45年(1912年)5月5日に鳴尾競馬場で開かれた「第1回自動自転車競走会」が、日本で最初に開かれたオートバイだけによる大規模なレースのようです。(出典:Old-timer No.3「戦前オートバイ競走史1・関西競馬界と鳴尾競馬場の記録」八重洲出版)



  【人物伝】島津楢蔵 - 二輪文化を伝える会
 【amazon】公営競技の文化経済学 (文化経済学ライブラリー)

2012年8月16日木曜日

「ShinMaywa」と「ポインター」

街で見かけるゴミ収集車。
4トントラックのパワーゲート。
車の後部に「ShinMaywa」のステッカーが貼ってあるの見たことあります。

ゴミ収集車などの特装車両や航空機事業を展開する新明和工業

この新明和工業が、かつて「ポインター」というオートバイを作っていたんですね。
(当時は新明和興業。→新明和工業:会社沿革

ポインターも名前だけは知っていたんですが、メーカー名までよく知りませんでした。

こんなバイクです。

第2回浅間火山レースのポインターPA
画像は、私設「北野晶夫の世界」から


1959(昭和34)年 浅間火山レース&クラブマンレースの映像

"静じい"さまよりご提供いただいた貴重映像第2弾。

1959年・昭和34年8月の第3回浅間火山レース&第2回全日本クラブマンレースの映像です。

この年ホンダはマン島に初挑戦(6月)、チーム賞を獲得しましたが、この浅間の125ccクラスではそのホンダワークス(RC142)を抑えて、北野元選手が市販車(CB92)で優勝するという快挙を成し遂げたのでありました。(→Wikipedia


2012年8月15日水曜日

1958年カタリナGPとヤマハWGP参戦50周年サイト

今年は鈴鹿サーキット開場50周年だったり、カワサキZ1発売40周年だったりしますが、昨年(2011年)はヤマハが世界グランプリ参戦50周年でした。

その特設サイト「ヤマハWGP参戦50周年記念スペシャルサイト」がかなり充実していて見応えがあります。

年代別の解説、ワークスライダー・ワークスマシン一覧、時代ごとのストーリー。ずっと残しておいて欲しいサイトです。

世界グランプリへの参戦は、ホンダ、スズキに次いで1961年からとなりますが、その前の1955年の富士登山レース、1958年のアメリカ・カタリナGP参戦についても触れられています。

伊藤史朗がトラブルを抱えながら6位に入賞したカタリナGPの動画。




2012年8月11日土曜日

浜松のバイクの歴史

バイクのふるさと浜松」というサイトがあります。
浜松市の産業振興課が運営するサイトのようです。

文字通り浜松発祥のバイクメーカーについての資料があり、なかなか参考になります。
(ホンダ・ヤマハ・スズキ・丸正の歴史、昔のオートバイ広告など)

特に、「浜松オートバイ列伝関連年表」は、各メーカーの動き、時代の流れがわかりやすいです。



「二輪文化を伝える会」の年表も、こんな感じで各メーカーとレースの歴史、時代の流れとあわせて見られるようなものにしたいと思っているのです。

2012年8月7日火曜日

日本のモータリゼーションを作った明治の男の物語


明治41年に自作ガソリンエンジンを作った島津楢蔵さんのつづき。
島津楢蔵さんの弟、山口銀三郎さんの孫である山口宗久さんによる「日本のモーターリゼーションを作った明治の男の物語」に紹介されていた、島津楢蔵著の「モーターサイクル」の一節です。

いやーたまんないですね!

「初めてエンジンが回ったその時」
“狂奮”
希望に燃え希望に悩んだ半疑の試し
青い焔を吐きつゝとぎれとぎれの
爆音たてゝ
処女作のエンヂンが産声を挙げた一瞬
全身の血潮は過熱して沸騰したのか
常態を失して、もう大地に足が着かない...
(つづきはリンク先で→「初めてエンジンが回ったその時」)

画像は「日本のモータリゼーションを作った明治の男の物語」より


日本のモーターリゼーションを作った明治の男の物語

2012年8月3日金曜日

国産オートバイ1号車「NS号」

NS号や島津楢蔵さんについても、ちょっと調べると面白そうな話がいっぱい出てきます。

とりあえず今日は2つだけ。

国産オートバイ1号車「NS号」
画像は「日本で複葉機を自作していたころの飛行機ファン」より

何をもって「国産」なのかはありますが、島津楢蔵さんはこの前年1908年に2サイクルエンジンを作り、すぐに4サイクルに方向転換して試作。
その試作エンジンを載せて、1909年に作られたのがNS号。(本人のイニシャルですね)
これは間違いなく国産車と言えるでしょう。

島津楢蔵さんも面白そうな人で、この後、航空機エンジンの開発に傾倒。さらに機体製作に取り組もうとするも、個人・町工場の規模ではもはや無理ということになり、自動車学校を設立。
それも大正11年に閉校となり、オートバイの開発に戻ってくることになったそうです。

ちなみにライト兄弟が世界で初の有人動力飛行に成功したのが、約6年ほど前の1903年12月のこと。

このNS号。「NMC号」という名で約20台売り出されたとか。
でも「日本初の国産市販車」とは言われないのです。


1909年 国産オートバイ1号車 NS号 完成 - 二輪文化を伝える会